光跡の地図8
「ジン、今日はどうする~?」
蛇口の下に頭を突っ込んでいた僕は返事をしようとして水を鼻と口から一気に
飲んでしまった。むせてゲホゲホするのを見て、連中はケラケラ笑った。幼稚園
より以前からツルんでいるやつらだ。
その中に、悠はいない。
「塾行くから、今日はすぐ帰る」
僕はいつもと同じ返事をする。
「え~~、夏休み終わってから毎日それじゃん。付き合い悪いぞ」
「しかたないだろ、大金払ってンだから」
それが僕の意に反することだと言いたくて、わざと乱暴にロッカーのドアを閉めた。
「ジンがガリ勉になるとは思わなかったなぁ~」
諦め悪いらしく、着替え終わってもまだ彼らは僕のまわりを離れない。
僕だって、以前のように部活の汗をすっきり流したあとは駄菓子屋に行って、お好
み焼きの鉄板をつつきながらこいつらと他愛無くふざけていたい。中学生になって
からはそういう楽しみしかなくなっていた。
あれほど夢中になっていた天文にも、今は食指が動かなくなっていた。幼馴染み
たちはいいやつらだが、星にはほとんど関心がなかった。放課後の部活もほとん
どが運動系で、同好会で写真部はあったが、被写体に夜空を選ぶことは滅多に
ないところだった。
悠が目の前からいなくなって、僕は空っぽになってしまった。
小学校の卒業式が悠と会った最後だった。
悠は無事に私立中学に合格した。ところが、その学校は隣の県にあり、通うには
電車とバスを使って2時間もかかってしまう。もともと丈夫ではないこともあり、学校
の寮に入ることになった。卒業式を終えたその足で、悠は迎えに来た父親の車で
行ってしまった。
別れを惜しむひまもなかった。
みんなで立ち寄る駄菓子屋から帰る時、少し遠回りになるけれど、ときどき悠の
家の前を通った。特に週末は悠が帰ってきているのではないかと期待して。しか
し目にするのは、庭を掃いている悠の母親の寂しげな背中だけだった。
父親の望むとおりにすれば母の寂しさを癒せることになるはず。悠はそう願って
いた。でも、実際には悠までいなくなってしまった。
友だちというポジションの僕ですら、胸にぽっかり穴が開いてしまったようなのに、
彼女はどんな思いでいるのだろう。
とても声をかけられなかった。
友だちがいなくなっただけで挫折するような夢は単なる子どもの思いつき程度
だったのかもしれない。ただ、僕は本当にやる気が失せてしまい、中学になって
から成績は見る見る転げ落ちてしまった。これでは、イイ高校、イイ大学、イイ
会社に入れなくなる、と僕の母は怒り、2年の夏休みについに進学塾に僕を放り
込んだのだった。有名国立大学に生徒をバンバン送り込んでいるというその塾
は内容も高度だが、受講料も当時としては破格であった。
受験を乗り切るには頭脳だけでなく、体力・根性が重要と担任に説き伏せられ、
母は1年生から入部しているバスケットを続けることは許してくれた。
部活が終わったらすぐに帰り、母の用意した弁当を持って塾へ行く。途中に休憩
時間はありながらも夕方から夜遅くまでみっちり勉強する。塾から帰ると、学校の
宿題やら予習やら。ゆっくり空を見上げることのないそんな生活も、僕は無味乾燥
に受け止めていた。
すっかり付き合いの悪くなった僕なのに、幼馴染みたちは心配し、せめて授業の
合間と休日くらいはと、せっせと遊びに誘ってくれた。いつも新聞ごしに黙って見て
いるだけの父も「土日の講習は受けさせるな」と母にクギを刺した。まあ、余計に
お金がかかるからということもあるが。
そうしてなんとなくの日々が過ぎ、何度か雪が降って、陽射しが暖かくなり始めた頃。
突然、妹が、
「悠くん、明日帰ってくるよ」
と僕に耳打ちした。
僕は仰天した。本当に驚いた。
「な、なんで?どうして、なんでおまえが知ってるんだ!?」
たぶん目玉が飛び出すくらいの顔をしていたんだろう。妹はちょっと吹き出したがす
ぐに真顔になった。
「お兄ちゃん、知らなかったと思うけど、私、悠くんのお母さんにお菓子作りを教えて
もらいに行ってたの。私と友だち何人かで。悠くんのお母さん、お菓子の教室やって
るの」
知らなかった。そういえば、悠の家でよく美味しいケーキを食べさせてもらった。
「明日もその教室の日なんだけど、昨日『休みにします』って言ったの。理由を訊い
たら、悠くんが帰ってくるから迎えに行くんだって」
「………明日って、木曜だよな。平日に帰ってくるのか?」
すると、妹は少し躊躇ったあと、
「悠くん、病気なんだって。学校、辞めたんだって」
「病気……?辞めた……?」
目の前がグルグル廻った。
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